“分離”とは? 

“分離”、これは信念や行動、対象、人をポジティブ又はネガティブな特性にそれぞれ着目することで善し悪しに当てはめる、分離又は両極性を生むことと定義されます。

 

 

これは政治においてよく見られます。例えば左翼の政治家が右翼の政治家を意見が偏った利己主義だと考えたり、逆に右翼は左翼を独りよがりの偽善者などと思うような例が挙げられます。

 

 

他の例を挙げれば、医師のことを賢く勤勉な存在として捉える一方でナースは不真面目で無能だと考える患者、全ての人を神の祝福を受けているか否かで分類する狂信者、離婚で片親を締め出している間、片方の親を崇拝する離婚家庭の子供などがあります。

 

 

文学における分離の例は、JDサリンジャーのライ麦畑でつかまえてに見ることが出来ます。主人公ホールデン・コールフィールドは成人期の到来に困惑していました。大人になることへの恐怖を対処する為に、彼は大人になることを、浅はかで紛いものの完全に悪い世界と考え、子供でいることを潔白、好奇心、誠実といった完全に良い世界として考えました。

 

そして彼は妹のフィービーに、子供時代とは子供が詩の様に美しいライ麦畑ではしゃぎ回り遊んでいるような状態を思い浮かべることを伝えます。そして自分のことを、崖近くに佇む“ライ麦畑で捕まえる人”として捉え、崖から落ちる(おそらく死ぬ、又は大人になる)と脅して来る子供達を捕まえるのだと伝えました。

 

 

とにかく、子供達がこの広いライ麦畑で何かのゲームをして遊んでいる姿をずっと想像しているんだ。何千もの子供達、その他には誰もいないんだ – 大きい人は誰も、って意味ね – 僕を除いてね。それで僕はすごい崖みたいなところの端に立ってるんだ。しなきゃいけないのは、この崖から飛び降りようとする人がいたら、それをみんな捕まえること – もし彼らがどこに向かっているのかも見ずに走って来たら、どこかから表れて捕まえてあげなきゃいけないんだよ。一日中することはそれだけ。ライ麦畑で子供を捕まえるだけなんだ。変なのは分かってるよ、けど本当になりたいのはそれしかないんだ。

 

 

ミゲル・デ・セルヴァンテスは、ドン・キホーテにおいて分離をコミカルな表現に用いています。この小説では自任、自己流の騎士はずれのドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャが、英雄と悪党、お姫様と娼婦、巨人とドワーフといった登場人物で溢れた世界を案内してくれて、その世界では英雄は最も素晴らしく、悪党は最も残酷で、婦人は最も美しく貞節であるという設定になっている。ドン・キホーテのお付きのサンチョ・パンザはこう叫びます。「気をつけて下さい。あそこにあるものは巨人ではなく風車です。」

 

 

与えられた状況や出来事のニュアンスや複雑さを理解する為に、分離は物事を単純化し体系化することによって我々の無能さから起こる不安を放散します。加えて、分離はあなたの考えや価値観に合わない人を信用せず、更には自身の中で悪魔化させることによって、我々の考えを良く高潔なものとして強化します。

 

 

一方で、反対のものを分類することは、現実を明らかにゆがめた状態にしてしまい、限られた思考や感情のみしか残らなくなってしまいます。また、人との交際の機会を得たり、維持する能力に影響が出ます。理由の一つ目はこのせいでまず、退屈で無作法になってしまうということ。二つ目は、相手がより都合よくなったり、不道徳に思えると友達や恋人を簡単に態度を変えてしまうからです。

 

 

最後に、おとぎ話や子供の話にいくつもの明確な分離を特徴付けるのには意味がありません。例えば、善悪、英雄と悪党、妖精とモンスター、宗教関係で言えば天国と地獄、天使と悪魔、聖者と罪人といった具合です。

 

 

対照的に、アキレスやホメロスのオドゥッセウス、シェイクスピアのクレオパトラといった、大人の文学の中で説得力のあるキャラクター達は善し悪しを測る大きな基準がありますし、片方はもう片方に親密に繋がっています。

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